あゆみ 研究者への道のり

きっかけ

 今でこそ大学教育に従事しておりますが、当然ながら、この私にも学生時代はありました。

「先生はどうして、こういうことをしようと思ったんですか?」

 ふいにゼミの学生にたずねられて、改めて気づきます。

「そういえば、この話を誰かにするのって、久しぶりだな……」

花

語り出す

  私がみんなと同じ大学生の頃は、なんていうか、コンプレックスのかたまりみたいだったんだよね。自分の考えを言葉にする、ということは小さいときから自然にできたけど、それで褒められるということはなくて、逆に、相手を追いつめてしまうことのほうが多かった。

 それでも大学生になると、ディスカッションの機会も増えて、そういう場面では、じっと黙っている人たちを見て、「なぜ何も言わないんだろう?」と冷ややかに見つめる自分もいたりして。

 劣等感と優越感が共存しているような、そんなアンバランスな青年期を送っていたわけ(笑)。

 でも、あるとき、友だちがこんな話を聞かせてくれてね。

「そりゃあ、意見は言いたいよ。でも、自分の考えを整理しているうちに次の話題にどんどん進んでしまって、結局いつも、何も言い出せないまま終わってしまうんだよね。」

「えぇっ! そうだったの?」

 もう、目からウロコが落ちるどころの騒ぎじゃなくてさ(笑)。ものの見方が180度変わった。

 私は教育学部だったから、教授法のような科目をたくさんとっていたんだけど、小学校体育の教科教育法で、すばらしい先生の授業を体験してね。最初の授業で、その先生がこうおっしゃったの。

「ぼくは体操の選手でしたから、小さいときから、鉄棒も跳び箱も、運動は何でも、自然にできました。けれども……」

と言いながら、目の前に敷かれたマットの上にいきなり寝転がって、こう両腕を頭の上に伸ばして、マットの端から端までコロコロと転がって、そして起き上がって、こう言ったの。

「世の中には、こういう動作さえも、むずかしいと感じる子どもたちがいるのです。」

 この先生の授業では、主に「さかあがりの補助法」を学んだんだけど、クラスの中に一度もできたことのない子がいてね。私たちはこう、背中を合わせて下から押し上げるんだけど、そうやって補助の仕方を学ぶうちに、できるようになったんだよ、その子が! 一度もさかあがりができなかった子が、大学生になって、初めて!

 本人はもちろんうれしかったと思うけど、補助をした私たちも、すごくうれしかった。

 この体験と、さっきの友だちの話が、ガチッとリンクしてね。

「ああ、これが自分の生きる道だ!」

って思ったんだよね(笑)。

 

学生に諭される

「えー、最初にそれを話すべきですよー! その人の人間性に触れて初めて、もっと知りたいと思うものじゃないですかあ。」

 なるほど、その通りだな。

 物語のメッセージ性についてなら、メカニズムを専門的に解説できるけれど(いつも講義しているけれど)、自分自身の内面的な、本質的な部分を、とくに初対面の人に、いきなり話すのはなかなか簡単なことではないですよね。

 でも、それで壁を取り払えるなら、躊躇している場合ではありません。

「これからは、初対面の人にこそ、積極的にこの話をしよう!」

 そう思い直したのでした。

 

学部時代(国語の教師をめざす 1986-1989)

 学生時代は静岡大学教育学部(国語科)に在籍しました。クラスメイトの多くが文学を専攻する中で、私は言語教育に興味を持ちました。ただ、言語教育と言っても、文法や表記の教育ではなく、自分が考えていることを、ことばできちんと表現できる能力を育てる教育に関心があったのです。

 しかし、コミュニケーション教育は、今でこそあたりまえのように言われますが、当時の国語教育では「言語表現」というと日本語の文法や表記に焦点があてられていたように記憶しています。私がいくらコミュニケーション教育の必要性について熱く語っても、ほとんどの場合、冷めた反応が返ってくるだけでした。

「日本人の国民性には合わないんじゃない?」

 

留学時代(米国でコミュニケーション教育を体験 1989-1990)

 それでも思いは強まる一方です。TOEFLのスコアはぎりぎりでしたが、なんとか米国の大学に編入し(静大は休学)、コミュニケーション教育を体験することができました。やがて私の中に一つの疑問が生まれます。

「なぜ日本には同じような教育が存在しないんだろう?」

 これがきっかけとなり、静岡大学に戻って取り組んだ卒業論文のテーマには「日本語と日本人のコミュニケーション」を選びました。そして、つたない調査ながらも、文献を読み進むうちに確信はさらに強まるのでした。

「これからの日本には必ずコミュニケーション教育が必要になる!」

 そういうわけで、すでに大学を卒業し教師として働いていた同級生たちとは違う道を選ぶことになりました。教員採用試験は受験せず、本格的にコミュニケーション教育について学ぶために、大学院留学をめざすことに決めたのです。

 学校教育の現場に立つことより研究の道を選んだのは、教育方法や教材開発の研究に取り組むほうがより広く現場に貢献できるのではないかと考えたからです。また、自分が受けたくても受けられなかった教育を実現させることで、(当時)腐敗していた日本の大学教育に一石を投じたい、という思いがありました。

 まだ大学生だったわけですから、身のほど知らずな志ですよね(笑)。

 

NEC時代(ソフトウエア開発を学ぶ 1991-1994)

 いま思えば、大学を卒業してすぐに大学院へ進学することも可能だったと思うのですが、企業で働いた経験は将来きっと役に立つだろうと思い(というか、単にお金がなかったので)、バブル全盛期の超売り手市場の波にのって、ソフトウエア会社に入社することになりました。

 ソフトウェア会社を選んだのは、ただ単にコンピュータについて勉強したかったからです。あの頃は大学生が卒業論文にワープロを使うのさえ珍しい時代でしたから、パソコンをもっている人なんてほとんどいませんでした。しかし、私は留学中にタイピングやコンピュータをかじったせいもあり、人よりコンピュータへの関心が高かったのかもしれません。

 入社した時点で大学院へ行くことを決めてはいましたが、一つの会社に勤めた以上は全力投球で取り組んだつもりです。もともと論理的思考が好きだったせいなのか、 プログラムづくりは楽しかったですし、システム開発の創造性にはやりがいを感じました。なにより、入社時にはコンピュータについて何一つ知らなかった私に多大な知識と技術を与えてくれた3年間でした。

 幸いなことに、上司や先輩、そして同期の仲間たちに恵まれ、大学院留学のために退職することが決まったあとも変わらぬ態度で応援してくれました。 このときの私は、NECでの経験が数年後に自分の可能性を大きく広げてくれることになるとは想像だにせず、一抹の寂しさを覚えます。

 「コンピュータの世界とも、お別れか……」

 

ウィートン大学大学院時代 (コミュニケーション学を学ぶ 1994-1996)

 大学卒業から3年を経て、念願の大学院留学(米国イリノイ州シカゴ郊外のウィートン大学大学院)が実現しました。が、喜んだのもつかの間、早々に学習方法につまずくことになります。日本の大学教育しか知らなかった私は、「学ぶ」というのは「講義を受けて知識を吸収すること」だと勘違いしていました。しかし、大学院では誰も何も教えてくれません。その代わり、教授たちは熱心に私が自ら学ぶための課題と環境を設定してくれました。

 「教育とは?」という問いについて改めて考えさせられる体験でした。もちろん、初めは戸惑いました。「学費を払ってるのに、どうして何も教えてくれないのですか?」と教授に抗議したことさえあります。それでも週ごとの課題をこなさなければ、単位はおろか、その週の授業にさえついていけないのですから、泣きたい気持ちを抑えて、とにかく数百ページの読書と数本のレポート作成を消化する毎日が続きました。

 あるとき、ふと自分の変化に気づいたのです。あのときの学習体験をことばで説明するのは難しいのですが、しいて言えば、こういう表現になりますか。

 人間はみな可能性と呼ばれる畑をもっている。自分の中の未開拓の部分、つまり、その存在すら自覚していない畑を、無意識に、しかし確実に、耕していくプロセスというようなイメージです。テストの あとには忘れてしまう知識のつめ込みと決定的に違う点は、自分が切り開いた畑は自分の財産(能力)として生涯残る、ということです。この体験が私の研究の原点と言えるかもしれません。

 ただし、大学教員となった今は当時の私のような学生から抗議をうける立場になりましたが……。

 

挫折期(意気揚揚と帰国するも 1996)

 さて、大学院の学びを終えた私は、血と汗と涙の結晶(と自分では思った)修士論文「文化の違いを超えたスピーチ教育―日本の教育は米国のスピーチ教授法をいかに導入すべきか」をたずさえて意気揚揚と帰国します。ところが、世の中そう甘くありません。無邪気な私を待っていたのは日本の大学組織の冷たい風でした。

 がむしゃらになればなるほど空回りして、時間だけがむなしく過ぎていきます。「どうしよう。これ以上、無職でいるわけにもいかないし……」と焦り始めた頃、中学校の非常勤講師の仕事を勧められました。「きっと悪い話じゃない。現場から始めてみるのも大事なことだよ」と自分に言い聞かせたある日曜日のことです。

 その日、私は大学生の頃から通っていた教会へ、いつものように参加しました。礼拝のあと、新しく来ていた高校教師のKさんと挨拶を交わし、お互い自己紹介をします。すると、驚いたことに、広島の高校で教鞭をとっていらしたKさんは、ある教育工学の権威のもとで学ぶために、はるばる静岡大学までやって来た大学院生でした。

 その教育工学の権威とは、ちょうどその年に新設された(国立大学では初めての)情報学部の立役者N先生だったのです。 事情を知ったKさんは「一度、先生に会ってみてはいかがですか?」と勧めてくださいました。

 「灯台もと暗し」とはこのことです。それまで、たくさんの人に会うためだけに必死に走り回っていたのに、「え? 毎週いってた教会で?」と、ただただあっけにとられるばかりでした。

 常に超多忙なN先生ですが、たしかその週の水曜日には面接の時間を作ってくださったと記憶しています。Kさんのアドバイス通り、履歴書と修士論文を持参し、緊張しながら「研究室の門」をたたきました。

 あの時、自分が何を話したのかよく覚えていないのですが、先生はのちに「目を見れば、だいたいわかる」とおっしゃっていたので、私の目が何かを訴えていたのでしょう。研究補佐員のアルバイトとして、研究室への出入りを許されました。

 とはいえ、これで将来が約束されたわけではありません。まだN先生のことをよく知りませんでしたし、紹介された非常勤講師の話も週末まで考える猶予が与えられていたのです。 しかし、初めてお会いした権威は、見ず知らずの私が持って行った研究発表の原稿(A4で10ページ)を「今から読みます」と言って、その場で読んで下さるような方でした。そんな先生を信じてみようと決心し、非常勤講師の仕事はきっぱりとお断りしました。

 今でもふと「あのとき、先生と出会わなかったら、今頃どうなっていただろう?」と思うことがあります。しかし、N先生とは出会うべくして出会ったに違いありません。ずいぶんあとになってから先生がおっしゃいました。

「これからはコミュニケーションの教育が必要になると思っていたところへ、牧野さんが来た。」

 

静岡大学時代(情報教育という新しい可能性 1997.4-2000.3)

 研究室に出入りするようになって半年ほどが過ぎ、マルチメディア演習室の管理者というポストに空きができました。N先生のご推薦をいただき、またNECでの経験も手伝って、静岡大学の正式な職員として勤務できるようになりました。 技術補佐員という肩書きでしたが、この仕事を通して、情報教育の現場を経験することができましたし、何よりも、空き時間があれば「研究のための時間を確保できる」という大きなメリットがありました。おかげで3年間みっちりとN先生の寺子屋指導を仰ぐことができたのです。ただし、先生のご指導のスタイルはあくまでも学ぶ側がまず自分で考えて主体的に動くことが条件でした。

 教育工学のことは何一つ知らず、右も左もわからなかったのですから、見よう見まねと試行錯誤を繰り返すことしかできませんでした。それでも、最初に先生が予告された通り、3年後には研究成果が一つの形をなしていました。修士論文を書き上げた時から思い描いていた抽象的な概念がカリキュラムとして具現化され、ようやく理論と実践が統合されたのです。

 そんな成果が小さな自信となって、私は就職活動を再開するようになります。しかし、何回挑戦しても結果は不採用ばかり。その日も例のごとく不採用通知が届きました。封筒を開けて手紙を確認する私の目に「今回は287人の応募者があり」という一文が飛び込んできます。 なぜか私はこの時初めて現実の厳しさを実感したのです。「たった一つのポストにこんなに大勢の人が応募している。私のような人は日本中にたくさんいるんだ。」遅まきながら自分の無力さを痛感した瞬間でした。

「一生がんばっても、ダメかもしれない……。」

 そんなつぶやきが神さまに届いたのでしょうか。その日の晩のことです。突然、異文化コミュニケーション学の第一人者であるA先生からお電話をいただきました。なんと、某大学のTOEIC担当者のポストを紹介してくださる、というお話でした。もしこれが前日だったら、「で、でも、英語教育は専門ではありませんから……」と二の足を踏んでいたことでしょう。しかし、「誰でも専門以外のことから始めるものです。もしあなたにその気があれば、このポストは決まりますよ」というA先生のお言葉にすがる思いで、お願いしました。

 翌日、某大学のB先生からお電話があり、その場で英語の口頭面接という急展開になります。自分ではかなり手ごたえがあったと思いつつ、とにかく指示された通りに連絡を待ちました。その後、音信不通の状態が数ヶ月間は続きましたが、しつこく問い合わせるわけにもいかず、 やはりひたすら待ち続けます。 半年過ぎても連絡がないので、迷ったすえに私はA先生に手紙を書きました。数日後、A先生はたいそう驚かれ、直ちにB先生と連絡をとってくださいました。しかし、B先生はこのときすでに人事の担当からはずれていらしたのでした。呆然としながら、B先生に電話します。

 開口一番。

「あなた、他のところにも応募してなかったの?」

 1999年もあと数日でおわり。いつものようにN先生に報告メールを書きます。ことの詳細を書き終えて、ふと「そういえば、これまではっきりと言葉にしたことはなかったなあ」と気づきながら、私はN先生に初めてのお願いをしました。

「どうか、お力を貸してください。」

 

大阪女学院時代(教育情報化プロジェクトに取り組む 2000.4-2002.3)

 大阪女学院短期大学は、教育情報化の先駆けとして、N先生が校内ネットワーク環境をデザインしたという経緯がありました。小規模ながらも、日本でいち早く「英語で学ぶ」教養教育を取り入れたことで知られ、キリスト教主義の伝統を名実ともに大切にする学校でもありました。

 不思議なことに、N先生が問い合わせをしようとしたちょうどその直前に、大阪女学院の方から一通のメールが先生に届いたそうです。

 年があけ、書類審査を通過し、いよいよ面接のために学校に出向くことになりました。 ところが、そのとき初めて自分が「教育情報化コーディネーター」として招かれていることを知ったのです。面接の場で知らされた当の本人が驚いたのはもちろんですが、驚いている私の姿をご覧になった学長もさぞかし驚かれたことでしょう。のちにN先生にたずねると、「牧野さんならできる、と思って推薦しました」とサラリとおっしゃいましたが……。

 そんなこんなで、あれよあれよという間に事態は思わぬ方向へ展開していきます。しかし、ここまでくると、何か大きな力によって導かれている、という確かな感覚がありました。 また、キリスト者を中心にスタッフ全員が学生たちと真剣に向き合う校風にも惹かれ、自分も一員に加えてもらいたい、という思いで新しい世界に飛び込む決心をします。こうして、特定教員という立場で、3年間の教育情報化プロジェクトに取り組むことになりました。

 幸い、有能で頼もしいスタッフに恵まれ、教育情報化にむけた土台づくりは順調に進みました。しかし、プロジェクトの段階が進み、「現場→トップ」「チーム→組織」というレベルに移行するにつれ、私は自分の限界を感じるようになります。やがて、自分にできることと、できないことを自覚するようになりました。

 そんなある日、思いもよらない方からの連絡が舞い込みます。まだ帰国して間もない頃、とある学会の研究発表のあとに貴重なご助言をくださったC先生からのお電話でした。なんと、言語とコミュニケーションの授業を担当できる教員が求められ、私にも可能性があるかもしれないというのです。

 一瞬、ことばを失いました。

 けれども、大阪女学院に迎えていただいて、ようやく一年が経過したばかり。そんなときにプロジェクトを投げ出すわけにはいきません。自分には縁がなかったのだと、あきらめるよりほかありませんでした。しかし、思いがけず状況は一転します。あきらめたはずの可能性はその先で、私のことを待っていてくれたのです。結局、いろいろな方のご支援をいただきながら、一年後には先方に迎えていただくことが決まりました。

 それからの私はただひたすら「大阪女学院の教育情報化のために今すべきことは何か?」「それをいかにして他のスタッフに伝えていくべきか?」を考えるようになりました。やがて、立ち上げたプロジェクトは自分がいなくても動くようになり、 私の役目は終わったと感じました。少しさみしく、また、ほっとする思いでした。

 ふりかえれば、教育情報化という大きなテーマと向き合った2年間にできたことなど、ほんの小さな成果に過ぎません。ただ、もっと別の次元で、大阪女学院に導かれたことは必然だった、と思っています。私の人生は信仰の歩みをぬきにしては語れないのですが、この話はまた別の機会に……ということにいたしましょう。

 こうして、たどり着いた新天地は関西大学総合情報学部でした。

 

関西大学総合情報学部(コミュニケーション能力と学びのデザイン 2002.4~2012.3)

 あれから、十年が経過しました。やっぱり、大いなる力に導かれたのでしょうね。

 このWebサイトは学生たちとともに取り組んだ共同研究の成果であふれています。

 

クロス